ストレス感受性人間の、「人生」というマゾゲーのプレイ日記。
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ショートエッセイ、「おとなの小論文教室。」は「れんさんの文章」に対する感想。
題「そんなに幸福を恥じなくてもいいんじゃないかな。」

 山田ズーニーさんは「おとなの小論文教室。」の、「れんさんの文章」を読んだ。父親からひどい目にあい、それでも負けずに、自分の足で一歩一歩進んでいくことを進み、考えられないほど強い力を持った方の文章だ。
 この文章で自分もいちばんつらかった頃を思い出し、つうっと涙が頬を伝った。

 そして、
「今の自分はとても恵まれていて『幸せ』なのだから、もっとそれを活かした人生を生きなければならない」
 と感じた。
「現在自分の持っている幸福は、自分という人間の価値に見合っているのか?」
 という問いにぶち当たり、
「それに見合うよう、もっと高みを目指さなければ!」
 とがむしゃらに焦った。

 その結果、ここ二週間ほど、ずっとピリピリして勉強していた。
 勉強だけではなく、遊びのほうも効率をいかに良くするかばかり考えて、倒れてみる夢はいつも恐怖映画じみていた。
 その状態でも、高校までの受験勉強ならまだしも、大学院生になってこれでは情けないと思い、自分をどんと叱咤するか、自暴自棄になるかのどちらかになっていた。

 はたして、この高みを目指さなければならないというプレッシャーを抱え、それによって不安になっている状態は「幸せ」につながっているのだろうか?

 つながっていないと思った。
 少なくとも、今、自分は、文章を読む前より読んだ後の方が、微少だが不幸になっている。

 また、
「未来では幸せになれるかもしれない」
 という可能性が高そうな選択肢ばかりしており、今というときをすっかり手放すような選択ばかりしている。

 今という時間は、二度とは訪れてはくれないというのに。

 これを敷衍していくと、何十年後も、
「いつか、きっと訪れるだろう幸せにむかって、今を手放した努力を続けていく」
 ということに気づいた。
 つまりは人生のすべてを準備にかけてしまうため、これは現実の手段として「幸せ」を追い求める手段ではないだろう。

 れんさんより恵まれた状態と思われるのに、「幸せ」につながるようなことをみすみす手放すのは、無駄遣いで建設的ではないと思った。

 それでは、現実的な手段として、建設的に「幸せ」につながることは何だろうか。
 自分自身に対する提案として、ふたつのことが思い浮かんだ。

「人の話を聞いて、真に受けすぎないで、そんなものだと聞き流せるような余裕を持つこと」
「他人と自分を比べずに、目の前の出来事に、ゆっくりと丁寧に取り組むこと」

 どちらも、カウンセラーの方から教わった「マインドフルネス」の考え方だ。
 これらをすばらしい考えだと感じるということは、自分は流されるままに生きているということだろう。

 だから自分は、深呼吸をして、ゆっくり生きていこうと思う。
 今という時間をつかみとって、自分の歩調で歩いていくために。




 だいたい30~40分。
 プロット5分、1130字、原稿用紙4枚。
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