ストレス感受性人間の、「人生」というマゾゲーのプレイ日記。
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4 サイエンスとアサーティブネス。(連続番外編)
 科学者の人たちを見て、思ったことがある。
「自分の巣にこもり過ぎで、わからないことを耳にしたら、なぜあんなにしかめっ面をするのか。
『わかった、検討してみる』
 と応じられるのは、なぜトップクラスのうちのトップクラスだけなのか」
 という問題だ。

 ざっくらばんにすると、
「先人の『オレの話を、黙ってきけぇ!』に慣れ過ぎて、自分やクラスタに合わせてもらうのが当たり前のノン・アサーティブになっている」
 という科学コミュニティは思ったより多そうなのだ。

 科学者の卵を育てると思っても、
「釣るための面白そうなものをデモンストレーションするだけ」
 といったもので、
「科学的思考を育てる、クリティカルシンキングや、読んでおいた方が良いリテラシー」
 というものを同時に教えているのかよくわからない。

 自分はゆとり世代だが、高校時代に科学者育成を促進するプログラムのある学校だったが、そんなリテラシーを扱っていたのは、科学者の卵ではなく「意識の高い文系」をつくる「ディベート部」だけだった。

 ともかく、科学者の「巣にこもりがち」な現象について。
 アサーションという「コミュニケーション」という「アウトプットの技術」という観点から、
「これはダメだ」
 と思う。

 マインドフルネスやアサーションなどの、
「自分のアイディア=お気に入りの道具だけど、自分自身ではない」
 という考え方は、臨床心理クラスタしか持ってはいけないのだろうか?

 この命題を、ゼミはともかく、講義で発表で議論するたびに、ドン引きされて思うのだ。

 いろんな研究室が集まるからには、
「多様性のあるバックグラウンドをふまえたディスカッション」
 というのが大事だと思うのに、
「発表者のスキーマが、唯一の『思考という水が流れる水路』のように、発表しないと、空気が読めていない。発表者を大事にしていない」
 ということになるのだ。

 頑張って勉強したことをもとに意見をしても、
「ああ、tsudukiさんがそういうならそうかもね(≒お前の中ではな)」
 という感じに返ってきて、同期だけならともかく、先生もそういうので、ずいぶん弱っている。

 自分は、それよりもストロークが全くなく、ぼんやりしたり眠っていたりして、
「あ、自分、黙っていた方がいいな」
 と思ったらすぐに黙って、寝ている。

 黙っていた方がいいなら、当方はただでさえ低い体力の消耗を抑えたいので、
「突っ伏して寝てたら単位を上げるからね」
 とはっきり言ってほしいのだ。
「一回ぐらい休んでいいから、体調悪そうなら無理してこなくていいし、せき込まないでほしい」
 と思ったら、こっそりメモを渡すなりして、「察してくれ」というノンアサーティブな態度は勘弁してほしいのだ。

 はっきりいってくれれば、高校時代からそうだったので、割とひどい性質だが、安心して眠るのに。

 これに関しては、
「面白い話をしてくれれば聴く」
 ということに尽きるし、
「面白い話を聴いたから目を輝かせるのであって、『誰が言ったか』はそこまで重視してない」
 ということでもある。

 これは、Web雑文書きの勝手に背負っている肩書きのせいかもしれないが、小説や漫画で、作家読みをはじめるときのように、
「いつもいいことを書いているあの人は誰だろう?」
 と思ってから著者名を検索するのも粋だと思うのだ。

「いい」
「悪い」
 ではなくて、人を評価するときは、
「この人は、『アサーティブ』だなぁ」
「おかんは、『マインドフル』な人だなぁ」
 といった感じに、臨床心理をうまく使えているか、そのテクニックしか見ていないのだが、具体的に問題点が治せない、
「空気が読めない」
「よい、わるい」
 といったアバウトな「ミルトン・モデル万歳」の人物評価が、
「具体的に、メソッドは、妥当性のディスカッションは」
 と議論するはずの科学者の世界でなんと多いこと、だ。

 また、科学者や役人、あるいはそれを目指している人たちの、
「すぐに無理かもしれない、現実的ではない」
「それは話に合ってない、研究室ひとつではできない」
 という。

「議論って、何のためだっけ?」
 と思う。
 一か所で何とかできないことに対して、知恵を出し合ったり、その妥当性を他の視点から見たり、納得して協力し合うための下準備ではないのか。

「オレの話をきけぇ!」
 という、ジャイアン・リサイタルと強制されている拍手のことなのか。

「あばうと、こんさるていしょん。」
 で考えたことは、個人的な意見だけれど、だからこそ、
「自分という一個人としての祈り」
 として、切実に思うのだ。

 専門家が他のクラスタに歩み寄ったり、一般社会に対して、相互理解をあきらめるのではなく、現実逃避をして実験室の中でだけ思考するのではなく、通じ合おうという意思を持つことに対して。

 僕は、研究のパラダイムシフトを教授に熱心に語りながら、
「それが実際に、一般社会で普及するための『リスク認知』という壁を考えなかったポスドク」
 を見て、すごく恐ろしいと思った。

 考え違いのような発言を返されたが、その方の認識や研究室の空気を考えると、
「相互理解は無理である。別に、ラボの外は『きっと"誰か"が何とか理解してつなげてくれるはず』なので考えなくてもよい」
 というのが暗黙の了解のようだ。

「現実を見ようよ……! そんな人いないよ……!?」
 と、思った。
 自分は変わり種の特殊ケースのレア変異だ。

 だから、「科学コミュニケーション」という、「一般社会」(初心者)と「科学者」(上級者)をつなげる、「ファシリテーター」(初心者に近い中級者)に、すごくなりたくなった。

 最近ホットなネタでたとえれば、早野龍五さん。
 具体的には、民間の広報や、公務員、サイエンスライターなどだ。
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