ストレス感受性人間の、「人生」というマゾゲーのプレイ日記。
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2 解説の解析に目が肥えた弊害。(連続番外編)
 変わり者認定はいいのだが、解説というアウトプット形式と、インプット形式というより表現する中身の選抜法に、かなり目に行くようになったのが問題だ。
 ストロークという意味での聴講が苦手なのだ。

 講義で言われている内容が、既知の知識だと興味が一気に失せる。
 ゼミでの発表者が、アウトプットにやる気がなく、質疑応答に全く応じないつもりなら、資料を読んだ方が速いので、視線が落ちる。

 ディスカッションをしていい場合でも加減がわからず、講義において、自分の学費を有意義に使いたいので、つい議論に走って浮きがちだ。

 学部生時代、
「自分でぐぐればいいじゃない! 参考書名だけ教えてもらえば、自分で集中して読めばいいじゃない!」
 と割り切って寝ていたので、同期から「案外、しゃべるんだね」と驚かれている。

 また、自分でググり続けて、たまに一般読者と想定がずれていたことがあったので、
「他の人はどれだけわかっているのか?」
 というのも深く気になっている。
 たとえば、プログラムの中の処理に関する輪読について。
 プログラミングの研究室での抗議だが、先生も含めて、みんなで分からないからみんなで勉強しようというスタンスだ。
 先生方はわからないといいながら、微分積分とRやCをふれるうえで自分が無視している途中経過を重要視し、ディスカッションを交わしている。
 自分は、その利用法や意味合いについてまとめてみようと、口を出してみて、
「それは違うんじゃないかな」
 といわれて、頭の中の認識を書き換える。

 この講義は、わからないものが多いものの、
「自分にとってのプログラム」
 というものがはっきりしているため、得られるものが多くて素敵だ。

 また、自分の研究室の環境系の輪読について。
 フィールドの教授曰く、
「僕やtsudukiさんはともかく、みんなはわからないと思うから、そのまま説明して」
 といわれた。
 良書だったので、自分は納得した。
 和訳をどうするかについて、「四色ボールペン式」というか、「はねいたメソッド」が一番シンプルでいいだろうと思った。

 その和訳に関して、自分は英語と日本語を切り替え、
「日本は日本語で暮らせるという『ローカル経済の大きさ』という武器があるのに、母語をしっかりさせないとほかの言語で内容を深く表現するのは難しいと思うので、英語をうまくしゃべるよりは、日本語でストロークを伝わるように挨拶したり、いざとなればグーグル翻訳さんに頼ろう」
 という考え方で、もちろん、素の英語力は読みは得意だが、それ以外は壊滅的であり。

 直訳はいいのだが、同時にそれを「tsudukiクオリティ」でやるのは結構難しく。

 自分は、一ページを苦労して、「本名でやるのに『tsuduki』クオリティの読みやすい和訳」で書いていったのに、わずか6ビットという1バイトも満たない未知の情報に触れられなかった衝撃で、「参考文献だけ上げてあとは脳内補完しろ」をしたいのをこらえた。

 その代わりに、
「わかってない人に、難しい文体で理解させたり、自分でリカバリーや復習しづらい状況はすごくあれだ」
 と思ったので、参考文献リストのメールを送った。

 tsudukiのMEMOは、ガチ記事二本分に相当する分量だった。
 レベルと目的に合わせた「日本語」の文献の紹介記事だった。

 母にあきれられた。

「失礼じゃないか!」
「普通の大学生は、そこまでわかってないよ。フィールドの教授の『根本思想』を伝えるには、こうするのが自分にできる一番のことだったんだよ!」

 プログラムの講義の大部分を、「コモンを利用するときに必要な名前を仕入れたり、豆知識を仕入れられたらいいなぁ」でスルーしているので、わかる。
 自分が勉強しようとした時、効率の良い方法を提示された喜びが大きいので、わかる。

 やってからじゃないとわからないかもしれないが、最終的にうれしくなるべきものを残すべきだと思う。

 ……やってわかる人に、やってもらってうれしいことをすべきだと思うが、母のおかげで怒られる予感しかしない。
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